2013 年 2 月 18 日 のアーカイブ

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感謝のその先にあるもの

2013 年 2 月 18 日

昔、神津カンナさんのレクチャーに行った事があるが、とにかく素晴らしい!
の一言だった。著書も読んでいるが、女の私から見ると、賢くて可愛らしい
魅力的な女性だ(^-^) そんなカンナさんのグッとくるエッセイが、fbにUP
されていたので、以下に引用させて頂く(「大望」2月号より転載)

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私は比較的優しい、思いやりのある人間だと自負していた。

長女で忙しい両親に代わって、妹や弟の面倒をみてきた事が習い性となったのか、
頼まれ事をされれば、何でも引き受けてしまうし、少しばかり自分の時間や労力を
費やす事になっても、それを惜しむ気持ちにはあまりならない。

だから他人からは、面倒見がいいとか、気配りがあるとか、優しいとか言われ、
そう言われればもちろん悪い気はしないから、自分でも何となくそんな気に
なっていた。

そんなある日の事である。食事中に私は、友人から意外な事を言われた。共通の
友人の窮地を見かねて、私が一肌脱いだ経緯を話し終わった時、彼は小さく溜め
息をついて言ったのだ。

「君の優しさってさ、自己満足的なところがあるよね」

私はカチンときた。「どういう事よ、それ」

「いや、だからさぁ、君は確かに相手のために何かをしてあげているんだろうけど、
結局それは、自分の美学を全うするためって感じが、時々するんだよね」

彼は言いにくそうに、けれどもきっぱりと私に言ってのける。

私は猛然と反論し始めた。

「何かしてあげて、それで少しばかりこちらの気分が良くなったら自己満足なの?
優しくしてあげよう、と心がけている事をしたのに、それは自分の美学を遂行した
にすぎないって言葉で片づけるの? それって、あんまりじゃない。もちろん私
は神でも仏でも聖人でもないんだから、そりゃあ無垢な心でやってる訳ではない
けど、相手の事を思ってやっているのは事実よ」

黙ってしまった彼の前で、私はひたすら言葉を続けた。

「百歩譲って偽善でもいいじゃないの。偽善で優しくできる方が、何にもしない
より少しはマシでしょ? 能書きばかり言って、あなたみたいに何もしない人
っていうのが、一番始末が悪いのよ」

こちらもついつい興奮して、刃の鋭い言葉を投げつけてしまう。
彼は苦笑して私を見た。

「ごめんごめん。別に君を批判してる訳じゃない。人に何かしてもらいたいって
事ばかり求めている人が多い中で、君みたいにしてあげる事を喜べる人は、
偉いと思ってるよ。ただ・・・そこで立ち止まっているのは、君らしくないと
思ってるだけ」

話はそこで終わり、気まずいまま私達は店を出て、ほとんど会話をする事なく
駅まで歩き、そしてそのまま別々の電車に乗った。下り電車はまだ混んでいて、
私は吊り革にぶら下がりながら、さっきの友人の言葉を思い返した。腹は立つ
のだが、何となく気になる。残念だが心の奥底が、どこかで彼の言葉を認めて
いるような気もし始めていた。

ふと昔、聞いた仏教説話を思い出す。

それは地獄を釈迦が歩いている時の事だった。地獄に落ちた人々が、釈迦に
向かって口々に「食べ物をくれ!」と叫ぶ。釈迦はその言葉を聞き、大皿に
食べ物を山のように盛り、人々の前に置いた。そして、こう言ったという。

「食べても良いが、手掴みではいけない。この箸を使って食べるように」

差し出された箸は、重くて長い箸だった。人々は釈迦が歩み去るのを待ち
かねて、箸に手を延ばし、食べ物を口に入れようとした。ところが箸は長い
ので、食べ物を箸の先が掴んでも、遠くてそれを口に入れる事ができない。

ならば箸の下の方を持って・・・と試みても、箸は重いので、今度は満足に
操る事もできない。

結局、目の前に山のような御馳走があるのに、それらを口に入れる事ができ
ないのである。人々が泣き叫んでいると、ある一人の老人が何事かを思い
ついた。箸で食べ物を掴んだら、自分ではなく、目の前の人の口に入れる
のである。

食べさせてもらった人は、もっと食べたいから、その人も箸で食べ物を掴み、
自分の口ではなく、目の前の他人の口に入れる。自分ばかりが食べようと
している時には、口に入らなかった食べ物が、人に食べさせる事によって、
自分の口に入る。人を思いやる事が、結局は自分に戻ってくる事につな
がるのだ・・・というような話だった。

こういう戒めはキリスト教にもある。聖書には「自分がしてほしいと思う事は、
人にもその通りにせよ」という言葉がある。ごくごく基本的な「思いやり」の
教えなのであろう。けれども、あの仏教説話を聞いた時、確かその話を
した人は、こんな事を付け加えていたのではなかったか。

「これは、思いやりは大切だという教えではありますが、もう一つ大切な事
が隠されています。それは、人が誰かのために何かをするという行為は、
所詮、自分への見返りを期待してのこと。仏の慈悲と同じだと思い上が
ってはいけない・・・という事です」

友人はこの事を言っていたのだろうか。自分の行為を仏と同等に扱って
はいけない。それは思い上がりであると言いたかったのであろうか。

私は決して、何かを人にしてあげる時、具体的な見返りを期待している
訳ではないと思っているが、でも心の底には、そうする自分を見て満足
するとか、人の評価を聞いて満足するというような、精神的見返りを持っ
ているところが皆無とは言い難い。

私は窓の外に目をやりながら、じっと考えた。聖書の中に、こんな言葉
もあったっけ。

「人がその友のために命を捨てること。それより大きな愛はない」

見返りを求めず、自分の身を投げ打つ事が愛というならば、私がささやか
にしている行為など、愛の足元にも及ばない。私は胸が苦しくなった。

してもらう事を望むより、してあげる事の喜びを感じられる方がいい。偽善
でも見返りを求めるような気持ちがあっても、優しさを表さぬよりは、表した
方がいい。

けれども、そこは第一のステップにすぎない。その上に、階段はずっと
続いているのである。私はその階段がある事に気づいていなかった・・・
いや、気づいていたのかもしれないが、面倒で、見ないようにしていた
のかもしれない。

友人は多分、そういう事を言いたかったのだろう。けれども、だとしたら
一体、私はどうしたらいいのだろう。どんな風にすれば、せめてもう一段、
階段を上がれるだろう。

帰宅後、私は思い余ってさきほど別れた友人に電話をした。電車の中
で気づいた事を素直に告げた後、どうすればいいのだろうと尋ねたら、
彼は笑いながら言った。

「感謝感謝」

「えっ?」

「神や仏の愛はもちろんだろうけれど、例えば・・・植物はさ、あなたの
ために無償で空気を提供してくれてるんだし、太陽はさ、何の見返り
もなくあなたを暖めてくれてる。人は誰もみんな、気づいていないかも
しれないけど、もの凄い『優しさ』を与えられながら生きている訳よ。

それを思えば、君は誰かに何かをしてあげた時、きっと自己満足
なんかしないと思う。むしろ、当たり前だと思っていた街路樹や、
木漏れ日にサンキューって言いたい気分になると思う。偉そうな
こと、俺も言えないけどね」

私は体中が温められたような気分だった。

その友人は2年後に亡くなった。周囲の人のほとんどは知らなかったが、
彼はずいぶん以前から重い病を抱えていたという。もちろん私もそんな
事は全く知らなかった。

郷里に住む高齢のご両親に代わって、友人達が彼のアパートの整理
をした。その内の一人が後日、私に電話をしてきた。

「彼の部屋は貼り紙だらけだった。テレビには『笑いに感謝』、流しの
水道には『水に感謝』、トイレには『排泄に感謝』、ベッドには『眠りに
感謝』、それに・・・薬の入った箱にまで貼ってあるの。何て書いて
あったと思う? 『病気に感謝』って書いてあったのよ」

彼女はそう言うと、電話口で泣き出した。

人に何かをしてあげること。

それはもしかしたら、自分が目に見えぬ多くのものに守られ、愛され、
支えられている事を素直に感謝する瞬間なのかもしれない。次のステ
ップはまだ遠い。でも私はあの友人のおかげで、ほんの少し心の階段
を上る事ができたかもしれないと思っている。

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大人になればなるほど、注意してくれる人がいなくなる。一歩間違えれば
裸の王様で、ただのイタい人間になりかねない(>_<) こういう友達、まして
異性の友人は、歳を重ねれば重ねるほど、とても貴重で大切な存在だ。

感謝に値するものがないのではなく、感謝に値するものを、気がつかない
でいるだけなんだよね。「排泄に感謝」は、私が膀胱炎になった時に、
本気でそう確信した。痛みのないフツーの排泄は、決して、決して当た
り前ではないのだ。

「当たり前」の反対が「感謝」だ。

感謝は「万能薬」であり、人間力とは究極「感謝力」だと思う。

これからも感性豊かな神津カンナさんに注目していきたい。素晴らしいエッ
セイをありがとうございましたm(_ _)m 心がほっこりしてきました(^-^)

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