「人間は一生のうち、逢うべき人には必ず逢える。
しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」
/森 信三
(1896~1992年:愛知県に生まれる。京都大学哲学科大学院を
卒業。のち天王寺師範教諭13年。満州建国大学教授時代に終戦
帰国。神戸大学教育学部教授を務め、定年退官。神戸海星女子
大教授を勤続16年。その間、教育講演行脚の旅は全国に及び、
感化教導の門下数千に及ぶ。著述は全集25巻・続全集8巻。
社団法人「実践人の家」創開者)
私達はよく「縁」という言葉を使います。
縁起が良い、縁がある、これも何かのご縁で、
袖振り逢うも多生の縁、縁に始まり縁に終わる。
これだけよく使っている「縁」という言葉ですが、
「縁」というのは一体、何なのでしょうか。
今回は「縁」を探ってみたいと思います。
仏教の教えに「・・・如是(にょぜ)因、如是縁、如是果、
如是報・・・」という教えがあります。
何かの原因は、必ず縁によって起こり、その結果を現し、
そして、それが良くも悪くも、報いとなって身にふりかかる
事になる。こんな感じの意味でしょうか。
いかなる現象も必ず、「縁」というものが引き金となって、
私達の前にカタチを現す事になります。
新聞やテレビを賑わす、悲惨な事件や事故も、
ただ単に運が悪かったという言葉で済ませない、
何かの原因が必ず存在しています。
「縁」というと、どうも人間だけのものであるかの如く
思いがちですが、万象すべて「縁」が存在しています。
例えば、地球をはるか高く大気圏を突き抜けると、
そこは暗黒の世界。光の存在しない世界です。
太陽に近づくにしたがって、
本当ならば、地上よりも明るくなるはずです。
しかし、そこは夜の世界です。
ところが、太陽からくる光の波動が、
「大気圏」という「縁」によって光を生じます。
縁によって光を反射し、
太陽の光の波動は地上を照らすという結果を生み出した訳です。
しかし、その光を全ての人間が感知できるとは限りません。
大地に届いた光も、目の不自由な人には、光を感知すると
いう「縁」がないため、感じる事ができません。
五感も全て「縁」によって感知するものです。
あの料理はおいしいとか、いい香りだとか、柔らかい感触だとか、
それぞれの感覚は全て「縁」が働いているからこそ、感じる事が
できます。
テレビやラジオ、携帯電話、パソコン、これらにも「縁」が
あります。例えば、放送局が発した電波は、あらゆる所に
飛び交っていて、その電波は確かに存在していますが、
通常の人は、これを五感で感覚する事はできません。
それでは、どうすれば感知できるのかといえば、
その電波を受信する装置を使えばいい訳です。
電波の周波数と受信機の周波数があった時、
五感で感覚できるカタチが現れてきます。
電波を受信する装置が「縁」になり、
五感で感覚できなかった電波がカタチとなった訳です。
このように、カタチは必ず「縁」によって、感覚した事に
なります。この「縁」というものを、今一つ踏み込んで
人間で考えてみましょう。
まず、私達が生きているこの世の中には、過去、現在、
未来へと連なる目に見えない波動で満ち満ちています。
この波動を「業(ごう)」といい、
現象界の全ては、「業縁(ごうえん)」より現れたもので、
業(ごう)というのは私達の行い、動き、
動きとは波動であり、波動のバイブレーションです。
私達が思ったり、言葉に出したりする瞬間に、
業という原因が創り出されています。
良い思いは良い業を、悪い思いは悪い業を、
善き言葉は善き業を、悪しき言葉は悪しき業を生み出します。
この時点では、放送局が発した電波と同じで、
何ら感覚する事のできない、カタチのないものですが、
それがある瞬間、波動のバイブレーションによって
カタチを成します。それが「縁」です。
「縁」に触れた時に、カタチを顕(あら)わす事になります。
全てカタチあるものは、波動が縁に触れてカタチを現した
ものです。
例えば、おでこにタンコブができたとしましょう。
そのタンコブができる原因は、すでに過去に存在しています。
しかし、このタンコブができるきっかけは、
何かの縁によって生まれます。
人に殴られたとか、小石につまずいて、地面におでこを
ぶっつけたとか、頭上から物が落っこちてきて、おでこ
を直撃したとか、こうした何かの縁によって起こります。
タンコブができるという電波は、過去の何らかの原因で、
すでに存在していますが、それをカタチとして体験するのは、
周波数が合い、縁という受信機が働いた時に生じる事になります。
私達が今ここに、人間として生まれ出た事も、
必ず過去に何らかの業という原因が存在し、
それが親という「縁」によって、肉体を得ています。
ここまで説明すれば、ある程度ご理解頂けると思いますが、
私達がこれから経験する事は、すでに存在しています。
業という電波(波動)は、いつしか受信機(縁)によって、
カタチを現す瞬間を待っている事になります。
これは変える事はできません。
しかし、過去と現在は変える事ができなくとも、
未来は変える事ができます。
今から新たな波動を作ればいい訳です。
幸せになりたいなら、幸せの波動を、
裕福になりたいなら、裕福の波動を・・・
そして、良き「縁」に出逢えるように祈る事です。
平和の祈りの波動は、必ず良きご縁を引きつけます。
この厳粛なる法則を知っているのと、知らぬでは、
人生に大きな雲泥の差が生まれてくるのは必定です。
こうした法則を知るのも、一つの「縁」なのでしょうね。
日常茶飯事に使っている「縁」という言葉の意味を、
少しはご理解頂けましたでしょうか。
今回、ご紹介した言葉
「人間は一生のうち、逢うべき人には必ず逢える。
しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」
これは厳粛なる法則なのですね。
/柳瀬 勲
♪最初に弓を引く人は、長男の太郎と決まっているらしいが、ここで待っている彼らにも、それぞれ名前が付いている。五男の五郎・・・いや、六男の六郎ぐらいまでいたような(笑)。昔はきっと、女性はいなかったんだろうなぁ。