ペレグリン・ラツィオーシは1265年、イタリアのフォルリ市
に生まれました。ペレグリンの一族は高潔な事で知られ、
政治の重鎮としても誉高い家柄でした。
当時は、歴代のドイツ皇帝達が、かつてのローマ帝国という
夢を再び実現せんがため、奔走していた時代でした。皇帝達
の努力は当然、ローマの事実上の統治者であった、教皇と
の対立を引き起こしていました。
当時のフォルリ市は、皇帝派に牛耳られていました。教皇は
フォルリの皇帝派を、軍事的にも宗教的にも処罰しましたが、
反抗が止む事はありませんでした。そこで教皇は調停役と
して、聖フィリポをフォルリに派遣する事にしました。当時、
聖フィリポの高潔さを知らぬ者はなく、教皇選挙会は聖フィ
リポを、次の教皇に選任しようと考えていたほどでした。
フォルリの人達は、聖フィリポが来たら、格別のもてなしを
してやろうと決めており、教皇軍を虐殺したばかりの大広場
に演壇を作って、待っていました。到着した聖フィリポは、
この演壇に連れて来られました。
興奮した群衆が大勢詰めかけ、付近の通りにまであふれ
出ました。やがて、高らかなラッパの音が鳴り響き、広場
がしんと静まり返ると、聖フィリポはひざまずき、しばし
祈りを捧げました。
群集の中には、聖フィリポの威厳ある話しぶりに、説得を
受け入れる気になった者もいた事でしょう。しかし、若い
熱狂的な皇帝派グループの中には、使節の努力を台無し
にしてやろうという意図を持った者達がいました。その先
頭に立っていたのが、ペレグリン・ラツィオーシでした。
ペレグリンは、幼い頃から武術の訓練を受けており、街の
若者達の間では、すでにリーダー格であったようです。
ペレグリンは仲間を率いて、壇上に押しかけると、数分と
経たぬうちに修道士達を打ち据えました。ペレグリンも
その場の興奮に我を忘れ、聖フィリポの顔を強く殴りつけ
ました。集会はそれでお開きとなり、聖フィリポの望みも
消えてしまいました。
城壁を出た後、聖フィリポ達はひざまずいて、神を恐れぬ、
あの若者のために祈りました。
その頃、街の中では「市民の救済者よ」という歓声を浴び
ながら、皇帝派グループが凱旋していました。しかし、
ペレグリンは一緒になって喜ぶ事ができませんでした。
挑発されてもいないのに、自分は司祭に手を上げた。無防
備な修道士を叩きのめしてしまった。ペレグリンは突然、
自分の犯した振る舞いに愕然としました。彼は修道士達
の後を追い、走り出しました。
♪インドでは象は聖なる動物であり、ヒンドゥー教の寺院内で飼われている。やはり側で見ると、デカッ! 白い3本線はシヴァ神の信者である証しで、人間だと額に描かれる。