2006 年 7 月 のアーカイブ

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口と足で描く芸術家協会

2006 年 7 月 11 日

まずは、私のSOSに快く応えてくれたココロ優しき友人に感謝したい。
その彼女から速達で届いた手紙に、この可愛いカードが入っていた。
それも、うれしいメッセージと共に♪

実は私は蓮の花が大好きなのだ。裏を見ると「口と足で描く芸術家協会」
とある。星野富弘さんが関係してるのかな。カードのタイトルは「カエル
の歌」、作者は大分県の西岡良介さんという方だ。そして、「このカード
の収益は、障害者の学習と自立のために使われます」と書いてあった。

カードの中側には、蝶ネクタイを付けたたくさんのカエルが蓮の葉っぱ
の上で歌っていて、とてもカワイイ。という事は、この絵は全て口と足
で描かれたのか? それはそれは衝撃的だった!

私は絵を見るのは大好きなのだが、自分で描くとなると、多分理解され
るには千年はかかる・・・はず。天然の前衛ともいえる(笑)。自慢じゃ
~ないが、とにかく絵心は全くないのだ。キッパリ!

だから、絵が上手な人というのはそれだけで、尊敬の念に価する。まし
て口と足で描くともなれば、ただただ驚嘆するばかりだ。可愛いカード
の作者、大分県の西岡良介さんは、一体どんな方なのだろう? イン
ターネットは本当に文明の利器で、すぐにヒットしてくれた。

西岡良介さんは1954年7月、広島県生まれの52歳。高校2年生の夏、
器械体操クラブの練習で床運動の演技に失敗、首の骨を折った。

第5・第6頚椎を損傷。両足は完全に麻痺しており、両手両腕の機
能もほとんど失い、車椅子生活となった。2年後、重度障害者訓練
センターに入所。リハビリテーションの過程で、口に絵筆をくわえて、
または握力ゼロの手に絵筆をくくって絵を描き始めた。

独学で技術を習得し、絵を描く事が自立への大きな支えとなって
いった。1982年に「第11回現代洋画精鋭選抜展」に出展など、
多くの展覧会に参加している。油絵が主だが、小さな動物達を
色鉛筆で描くのも好評。

そうだったのか。私は油絵より、彼の色鉛筆の作品の方が好きだ。
西岡さんはサイトの中で、こんな崇高なメッセージを述べていた・・・
20060711

無能という有能

2006 年 7 月 10 日

判断
すべきだと
判断するのが
いちばん
大切な
判断なのに

判断
すべきと
判断できず
いちばん
大切な
判断ができない

無能
であることは
なんにも
問題はない

無能
であることを
自覚
していないことが
いちばんの
問題なのに

いまだに
無能であることを
自覚できない
無能な
自分が情けない

いつか
無能であることを
自覚できる
そんな有能な
無能になりたい

/野崎 美夫(格闘詩人)
20060710

続・東京北区・王子の狐行列

2006 年 7 月 9 日

行列当日の内容としては、大晦日午後11時より、装束稲荷にてかがり火を焚き、
王子狐囃子連によるお囃子の中、衣装を整えたお使いの狐達が続々と集まっ
て来る。除夜の鐘を合図に、新年の儀として鏡割りを行い、行列は出発する。

見物に集まった人達(約7,000~9,000人)には、お面などの販売や大道芸、
甘酒、振る舞い酒などで楽しんで頂く。人が狐に変身・・・ 若者を先触れに
お狐様、子狐囃子、それぞれの参加者が紙製の裃や狐面を身に付け、
小田原提灯を下げて、王子稲荷を目指し歩き始める。

道路の両側の見物客や交通整理の警察官共々、ゆっくりと行列は進み、途中
王子稲荷参道入口では、道案内が代わる交換の儀が行われ、稲荷道を進ん
で行く。

王子稲荷に到着して次々に参拝、神楽殿にて王子狐囃子が奉納され、老若
男女みんなで新年を祝う、という流れになっているらしい。でも12月31日とも
なれば冬の真っ只中。深夜は相当冷え込むよね(泣)。

王子稲荷のご祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、宇気母智之神
(うけもちのかみ)、和久産巣日神(わくむすびのかみ)で、厄除け・災難除け、
火防・商売繁盛の神様だそうな。

ここのもう1つの名物として、狐穴に上る階段の脇に「願掛けの石」がある。
「願い事を念じつつ持つ石の軽重により、御神慮が伺えるといふ」と書か
れてあり、石の幅が約40cmくらい、重さはどれくらいだろうか?

私は昔、王子稲荷へ初詣に出かけた際、この「願掛けの石」を持ち上げた
事がある。単なる好奇心からだったが、コレがかーなーり蛇(=Heavy)なん
だよ! 30~40kgはあるのかなぁ。間違っても下に落とせないので、とに
かく持ち上げて座布団の上に戻す事に必死になってしまい、とーとー願掛
けを忘れてしもーた。意味ないぢゃん(笑)

王子稲荷の近くには「名主の滝」もあるでよ。一度、来てみんしゃい♪
20060709
さて、ここで問題♪チャチャ(←懐かしいアメリカ横断ウルトラクイズ風)。この神社は都内の某所にあるのですが、一体どこでしょう? 当たったヒトは、かなりの神社通、いやマニアだね(笑)

東京北区・王子の狐行列

2006 年 7 月 8 日

「ところで王子の神社で、大晦日に狐行列があるとかって、
最近小耳に挟んだのだけど、ご存知ですか? 狐だから
お稲荷さんだろうけど。子供達が狐の面を付けて練り歩く
らしいの。見てみたいなぁ」という友人からMailがきた。

フンフン、聞いた事があるような・・・ これはネットでヤフ
ってみねばのぉ。写真が豊富なサイトも多くて楽しめる。

昔々、大晦日には王子の装束稲荷神社にある大榎木の根
元に、関東一円から数百匹の狐が集まって来て、狐火を
燃やすと言い伝えられていた。村人達はその狐火によって、
来る年の豊作か否かを占った。

歌川広重(安藤広重)はこの伝説を元に、1856年の最晩年
に名所江戸百景の1つ「王子装束ゑの木(榎)・大晦日の
狐火」を描いたそうな。

大榎があったと伝えられる装束稲荷では、大晦日の晩にかが
り火をたき、狐囃子を20年来続けてきたが、数年前から地域
の有志数十人がそれぞれの格好で、提灯を下げ行列を始めた。

古来の伝説、伝承を狐に代わって人間が行う事で、都会の中
のふるさと作りを目指しているとか。ぬわ~んと活動の実績
が認められ、平成11年度地域作り団体自治大臣表彰を受賞
したんだって。へぇへぇへぇ(笑)。

「商店街には黄色い丸い提灯に明かりが灯り、風に炎が揺れる。
まるで狐火のよう・・・」

と表現しているサイトもある。真冬とはいえ、この風景は幻想的
だろうなぁ。
20060708

七夕によせて

2006 年 7 月 7 日

「慈悲の冥想」の言葉

私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願う事が叶えられますように
私に悟りの光が現れますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願う事が叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願う事が叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

私が嫌いな人々も幸せでありますように
私が嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私が嫌いな人々も願う事が叶えられますように
私が嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々も願う事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

全ての衆生が幸せでありますように
全ての衆生が幸せでありますように
全ての衆生が幸せでありますように
20060707

蟻の街のマリア

2006 年 7 月 6 日

昭和25年、東京・浅草。終戦後に何不自由なく暮らす1人の女性がいた。
北原怜子(さとこ)、当時21歳。ある日、彼女の元に全身黒い修道服
に身を包んだ老神父が訪れた。「お嬢さん、可哀想な人のため、お祈り
お願いします。聖母マリア様のお恵み、きっとあります」と言い、マリア
様の描かれたカードを置いて、彼は立ち去った。

怜子21歳の冬、ごく平凡な毎日を送っていた彼女の人生を、大きく変える
事になるとは思ってもいなかった。新たなる偶然が、今度は彼女を大きく
導いた。街で老神父を見かけ、知らず知らずに後を追ったのだ。

そこは隅田川の近くで、100人近い人が街中のゴミを拾って来て集めていた。
小さな子供達までが、生きるために懸命に働いていた。空襲で家を焼き出
され、家を持てずにいた人々が集まり、下町の工場跡に日々ゴミを集めな
がら必死に生きていた。彼らはよく働く事から、ここは「蟻の街」と呼ばれた。

神父は広島や長崎を始め、蟻の街など戦争で被害にあった人達のために、
慈善活動をしていたポーランド人のゼノ神父だった。「私1人の力では
どうにもなりません。1人でも多くの人に知ってもらいたかった」という
神父の言葉に、何不自由なくただ漫然と暮らしてきた自分を思い返し、
怜子は恥じた。

とにかく何かがしたい、そう思った怜子は翌日、蟻の街へ行った。12月
というのに、足袋も履けずにいる子供達に、怜子は食べ物をあげようと
した。すると、蟻の街の男性が「帰れ。あんたのしてる事は、金持ちの
暇潰しだ。俺達は物乞いじゃないんだ」と言った。街には、怜子の存在
自身を快く思わない者もいたのだ。

本当にあの子達を助けたいのに、どうすればいいんだろう。彼女は悩ん
だ末、答えを出した。それは、自ら街中のゴミを拾い、蟻の街で働き
続ける事だった。彼女は1日も休む事なく通った。そして、集めたゴミ
で得たお金を、蟻の街の子供会の名でそっと会計に預けていた。

彼女はまた、自分のできる事をやろうと、子供達に歌や勉強も教えた。
学校に通えない子も、いじめられて泣きながら帰って来る子も、怜子
を先生のように慕った。

怜子はその後、教会と協力して、蟻の街で初めてのクリスマス会を
開いたり、子供達の夏休みの宿題のため、今まで見た事も行った
事もない山や海を見せようと、ゴミで集めたお金で、箱根に連れて
行ったりした。怜子にとって、子供達は生き甲斐となっていたのだ。

ところが、元々体の丈夫でなかった怜子は、無理がたたって体調を
崩し、半年以上も寝込む事になった。医者も「今の医学ではどうし
ようもありません」と言うほどに弱ってしまった怜子。そんな状態
の怜子の家族に、医者はこう言った。

「1つだけ、治せるかもしれない病院があります」

そこは、蟻の街だった。彼女の生き甲斐を薬にしようと考えたのだった。
半年ぶりに見る子供達の笑顔に、怜子は元気づけられた。1人の子供
が久しぶりに会う怜子に、1枚の絵を渡した。それは、怜子を聖母マリア
に見立てた絵だった。そして、怜子に奇蹟が起きた。

蟻の街に通うようになり、体調がみるみる回復してきたのだ。彼女
はそれからも金持ちの傲慢という非難を耳にしながらも、蟻の街に
身を置き、志半ばにして28歳の若さでこの世を去った。

しかし、彼女の勇気ある優しい心は、子供達の心にいつまでも
生き続けたのである。
20060706

ゼノ・ゼブロフスキー修道士

2006 年 7 月 5 日

新聞のTV欄で、「ゼノ」という名前を見てとても気になり、Netでヤフって
いたら、いきなり“空庵ブログ”が出てきてビックリしたな~、モ~(笑)。
2005年5月21日の未空風呂「聖女」に彼の名前があったのだ。そっか、
もう1年以上前からご縁があったのか。

“ゼノ”少年牧場の創始者、故ゼノ・ゼブロフスキー修道士は、東欧のポー
ランド生まれ。キリスト教カトリック・コンベンツアル聖フランシスコ修道会
から、1930年(昭和5年)布教のため、39歳で祖国ポーランドを離れ、
師と仰いだマキシミリアノ・マリア・コルベ神父と共に来日した。

以来在日50余年、半世紀にわたって日本の貧しい人々のために歩き続け
てきた人だ。特に戦後の混乱期、東京・浅草のバタヤ街の人々を、十字架
の下に自立更生させた「蟻の町作り」は映画にもなり、「蟻の町の神父」
として有名になった。

「貧困者救済奉仕部主事」の肩書きを持ち、「白いヒゲ・黒の修道服に黒い
カバン・黒いドタ靴」が代名詞のゼノさん。その“無限の愛の人”ゼノさん
の最後の夢となった「知恵遅れの子供達の楽園作り」に多くの人が共鳴。

これが“ゼノ”少年牧場として実を結んだもので、1961年、地元常石造船
株式会社社長・故神原秀夫氏から建設用地の提供や、様々な善意ある
人々の尊い支援と協力によって誕生した。その後も精力的に全国を飛び
回りながら、90歳に至るまでの清々しい人生を全うしたという。

またゼノさんが師と仰いだコルベ神父は1937年、ポーランドのニエポカラ
ノフの修道院長に選任されて、日本を去る事になった。やがて第2次世界
大戦が勃発し、神父であるという事とナチスに協力的でないという理由
でナチス軍に捕らえられ、アウシュヴィッツ強制収容所へ送られる。

そこで、死刑を言い渡された妻子ある人の身代わりを申し出て、餓死
監房で注射を受けて亡くなった・・・

世の中には安易な理由で人を殺す愉快犯もいれば、自分の命と引き
換えに人の命を守る人もいる。どちらも血の通った同じ人間だ。

それにしても、ゼノさんがいた“蟻の町”とはどんな町だったのか?
ここには“蟻の町のマリア”と呼ばれた北原怜子(さとこ)さんという
女性がいた。7/6(木)日本テレビでAM1:44~3:10、ゼノ神父の
一生を描いたアニメ映画「ゼノ 限りなき愛に」が放映される。

・・・ってオイオイ、こんな時間に誰が見るんだよぉ(泣)
20060705

ココロのお休み処“空庵”6周年

2006 年 7 月 4 日

本日、思わぬ中田英寿選手の引退表明がデカデカと
朝日新聞の一面を飾っていたが、7/4はアメリカの
独立記念日。そして、何より私にとっては、ココロの
お休み処“空庵”のBirthdayだ。おかげさまで6執念
・・・じゃなくって、6周年(笑)!

いつもアクセスしてくれて、どうもありがとうござい
ます。空庵神社の御未空慈は、すでに10596コ。
最近は、巫女未空がかなりのハイペースで奉納し
ていたようだ。ステキな言葉を送ってくれた方々、
本当にどうもありがとうございます!

未空ブログこと、略して未空風呂も気がつけば1年半。
日に日にアクセス数が上がっているのがうれしい~♪
空庵のみんなからのカキコやMailが私の元気の源だ。

ココロのお休み処“空庵”を通じて、名前も顔も何も
知らないあなたとつながっている奇跡。本当に素晴
らしいよね。インターネットというご縁結びに、心から
感謝したい。いつかお会いするまで、どうか元気で
いて下さいね。何度言っても足りないこの言葉、

「私と出会ってくれて、どうもありがとう!」

これからもずーっとずーっとずーっとずーっと
ココロのお休み処“空庵”と未空をよろしく
お願いしますね。

P.S お祝いに今年お初の「かき氷いちご味」by デニーズをどうぞ(笑)
20060704

見果てぬ夢

2006 年 7 月 3 日

人が生きる一番の力となるものは、
自分でいくつもいくつも用意してきた希望である。

希望はすぐには気づかぬとも、己の魂の内にあり続けている。

希望は、本来成し遂げるものであるが、
時として人は、希望をただ「見果てぬ夢」としてしまう事がある。

「見果てぬ夢」とは、
実現しなくとも良い、憧れのように気遣い、
己の外に置く事によって、
自ら実現する力なし、としてしまう。

「希望」が「見果てぬ夢」となった時、
どこかであきらめの気持ちが動き、
自分の身の回りや条件により、
自分にできない事を納得させるものでもある。

「希望」が「見果てぬ夢」となった時、
それさえも己を生かす力となる。

「希望」としてあれば実現できるもの、
「見果てぬ夢」としてあれば、
それは次の転生への希望ともなろう。

人は先に、希望見て生きる。

希望を己の力と成し、己を生かす力とする。

/協会員限定機関紙「飛翔」第2号より
20060703
♪今日のお初 ここはアメリカのDIY? 船橋のニュースポットIKEAの倉庫は、とにかく超デカいのなんのって! 地下帝国にでもいる気分だ。それにしても一体どうやって、あの荷物をあ~んな高い所に持ち上げられたんだろ? このテーブル&イス4脚セットは9,900円。売れ筋商品のため在庫切れ。だよねぇ。

お富士さん③

2006 年 7 月 2 日

富士塚でのお参りを無事に済ませると、デザイナーの友人はとてもスッキリ
したらしく、「小腹が空いた」と言いながら縁日の通りを歩く。

未空 「昔、駅の通りの方にも屋台がなかったっけ?」
友人 「そうだった? 覚えてないなぁ」
未空 「名物ヤンキーもいないね。時間がまだ早いからかな」
友人 「いや、イマドキいないっしょ」
未空 「そうかなぁ。祭りの時のお約束だと思うけど」
友人 「地方に行けばまだいるけど、東京はチーマー系になってると思うよ」
未空 「ウチらの時代は必ずケンカがあって、乱闘の場だったけどね」
友人 「時代が違うって(笑)」
未空 「ねぇ、ケバブ屋が多くない? トルコ人の作る本場トルコの味だって」
友人 「昔はなかったよ」
未空 「テキ屋もグローバルになってきてるんだね」
友人 「タイラーメンもあるよ。国籍関係ないね」
未空 「売れるのかな。ねぇ、パスタ揚げって何?」
友人 「パスタを油で揚げて、砂糖をまぶしてるんだね」
未空 「あんなの絶対なかったよ」
友人 「なかった。新たな味覚だね。ペットボトルのどデカい風船は何?」
未空 「ヒモが付いてるからリュック?」
友人 「でも、わざわざ空気を入れてるんだから、あの中に荷物を入れないでしょ」
未空 「確かに。でも、みんなしょってるよね」
友人 「浮き輪じゃないかな」
未空 「なるほどね。浮き輪だよ、浮き輪」
友人 「未空は何も食べないの?」
未空 「うーん、何にしよっかな。じゃがバタ屋多くない?」
友人 「射的も何気にあるよね。アイドルはKAT-TUNか」
未空 「型抜き屋がいないなぁ。お面屋もなくない?」
友人 「いや、あるよ。ほら、そこ。値段書いてないね」
未空 「昔、輪投げ屋があって、ちゃんと入るとその商品をくれるんだよね」
友人 「へぇ~」
未空 「でも投げ輪の直径より、大きなラジカセとかが置いてあるんだよ」
友人 「それはムリってモンでしょ(笑)」
未空 「でも、オヤジが“昨日、当たった人がいるよ”って平気でのたまうんだよね(笑)」
友人 「さすがはテキ屋!」
未空 「子供心に大人はウソつきだって思ったもん」
友人 「お好み焼きのキャベツとかってさ、絶対洗ってないよね」
未空 「洗うワケなーいなーい」
友人 「火を通すから大丈夫みたいな(笑)」
未空 「で、何食べるの?」
友人 「うーん、ココまで来たら銀だこかな」
未空 「って、いきなりチェーン店に行くか?」
友人 「うん、やっぱおいしいし」
未空 「お富士さんは衛生的に却下なワケね」
友人 「やっぱ銀だこならソース味だよね」
未空 「天つゆじゃないっしょ」
友人 「やっぱソースだよね、ソース」
未空 「そーっすそーっす(笑)」
20060702
♪村~の鎮守の神様の~今日は~めでた~いお~祭り日~ この舞台では何が行われるのだろう? 富士塚の麓にある小さな公園には、夏祭りの雰囲気が漂っている。こういうニッポンの風景を大事にしたい。

お富士さん②

2006 年 7 月 1 日

7月1日は、富士山の山開きの日。山開き、海開き、川開きと、
いよいよニッポンの湿気バリバリ、あじぃぃぃぃぃ~夏が始まる。
私が最も苦手な季節でもある(泣)。

夕方、区指定有形民俗文化財の富士塚はすでに混み合っていた。
夜になったら動けなくなるんだろうなぁ。毎年、富士山の山開きに
当たる7月1日を大祭と定め、前日の6月30日から神事・祭事を
執行しているそうな。此の地はそれ以前から、第六天と稲荷大
名神が祭られており、その後に富士神社が合祭されたらしい。

富士神社は、厄除け・お産・子育ての神として伝えられ、当神社
の厄除けとして、麦藁細工の「蛇」が販売されている。この麦藁
「蛇」を買った人は疫病が流行した時に、一家全員免れたという
事で持て囃され、名物となったらしい。江戸時代からある貴重な
物のようだ。

友人と長い列に並び、ジモティー富士山の階段を上がって行く。
頂上では消防団の人が汗だくで、モーモーと焚かれたお線香
の火を管理していた。ご苦労様です。私は浅草寺の如く、煙を
アタマから浴びていた。お参りすると、どこか気持ちが和む。
これはどこに行っても同じだね。

平和を祈ったら平和になるか? それはわからない。だが、確実
な事はそれを祈っている時の自分は、平和だと思う。11月に初
の個展を開く友人は、私より祈りの時間が長かった。彼女は何
を祈っていたのだろう。祈りは神を変えず、祈る者を変える。

オーム ロカーハ サマスターハ スキノー バヴァントゥ
(世界中が平和で、幸せでありますように)
20060701

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