「人は、傷つけられた時もそうだけれど、
傷つけてしまった時は、なおさら辛い」
その事に気づいたのは、
高校の時に、私が言った不用意な一言で友人の表情が変わり、
それから2人の仲がぎくしゃくしてしまった時でした。
傷つけたはずなのに、自分の胸の方がもっと痛い。
それを学習した私は、それから「人を傷つける」という事を
できるだけしないよう、気をつけるようになりました。
けれど、注意をしていても、無自覚だったり、相手の感じ方によって、
「傷つける」という事態を引き起こし、じくじくと胸を痛める事はありました。
起こった出来事を責め、不用意な自分を責め、相手を責め・・・
思考は回り続け、痛みは長引きました。
そんな私が変わったのは、
「物事が起きるのは必然だから」
という考え方に共鳴するようになったからです。
物事が起きるのは、それがどんなに耐えがたく辛い事でも、
当人や、関わる人が経験するのが必要だから。
だから、避ける事はできないし、
本当に必要なかったら、そもそも起きる前に「止められて」
いたはずだから、起こらない。
そう考えるようになったのです。
言っちゃった言葉は、回収できないのです。
でも、言ってしまったという事は、
それで相手が傷ついても、自分がもっと傷ついても、
それが相手にも自分にも必要な気づきだったのだ、と
いわば開き直ったんですね(笑)。
そうしたら、どうなったかというと・・・
とても楽になったのです。
今まで、そういう事が起こると、
「どうしてこんな事が」と過去に思いをはせ、
自分を責め、そういう事をしでかす原因となった相手を責め、
起こった事を責め・・・としていたのですが、
「しょうがない。そういう事もあるよね」
と思えるようになったのです。
そして、誰かが私に対して困った事をした時や、
誰かがトラブルを起こして、悩んでいる時も同じように
考えられるようになりました。
起きる事は全て、起こるべくして起きている。
だから、しょうがないんです。
バリ人の義兄が言うには、「すでに、神様の帳面に書いてある」のです。
だから、
「起きちゃった事はしょうがない。
これからどうすればいいか、考えよう」
必然だから起きたのだから、後はなるようになるのです。
その時、自分の持っているエネルギーを、
「責め」や「後悔」の方に向けて、うじうじするか、
「状況打開」の方に向けて、精一杯やるか。
それだけなんですね。
以前は、うじうじ考える方に使っていました。
でも今は、「ハラをくくる」という事を覚えたので、
精一杯動く方にエネルギーを向けるようになったのです。
神様が、私を憎んでいるはずがない。
耐えがたい事でも、それを私が経験して乗り越えて
一歩進化するために、あえて起こしてくれているんだ。
そう信じているので、委ねる事ができるのです。
私は手を広げて、慈愛に満ちたまなざしで私を抱擁する
「神様」という存在を、この目で見た事はありません。
けれど、自分に起こった事を考えると、
「神の見えざる手」というのが、全ての事に張り巡らされていて、
このちっぽけな私にも届いているのだと感じる事ができるのです。
だから、「信じて、委ねる」事ができます。
そして、「信じて、委ねる事」をどうしてもできない人にも、
その手は届いていると思う事ができるのです。
まだまだ、日常で胸がチクチクする事は起こります。
ガーンΣ(゜□゜lll) という事だって起こります。
でも、
「起きちゃった事はしょうがない。
これからどうすればいいか、考えよう」
そういう気持ちでいると、
自分も成長し、見えざる力の応援ももらえ、
思いがけなくスムーズに、状況が打開したりもするのです。
「全ての事は、自分に起因して、自分のために起こっている」
自分が、望む自分になるために・・・
私はそう思います!
/恒吉 彩矢子