~河鹿(かじか)の全盛時代~
私が足尾に就職したのは、大正6年7月で最初通洞選鉱場に入り、大正7年2月に本山選鉱場
に転じました。
当時は本山、通洞、小滝の3ヶ所に選鉱場があり、本山選鉱場が一番大きく最新式だったのです。
現在の誠之館は、建屋が当時の本山選鉱場の建屋です。
大正9年に小滝選鉱場が、大正10年に本山選鉱場が閉鎖され、通洞選鉱場に統合されました。
その頃の栃木県足尾は河鹿の全盛時代で、選鉱という仕事はあまり重要視されなかったのです。
何しろ坑内から出る鉱石は、一番粗鉱(選鉱場に行かず、直接精錬所に行く高品位の物)が
8割ぐらい、二番粗鉱(選鉱場を通る物)が2割くらいだったんですから。
私達、選鉱場で働く者も選鉱場という所は、連続操業するものでないと思っていたくらいです。
もちろん、一方操業です。
今から見ると、うらやましいほどの鉱況でした。
~苦しかった新工場建設時代~
昭和9年頃まで、旧い機械で色々系統を変えたりして、研究しながらきましたが、機械がガタ
ガタになったので、昭和9年、現在の選鉱場の建設が開始され、昭和10年に完成しました。
私はこの新工場建設には関係せず、もっぱら旧工場で鉱石の処理に当たっていました。
この頃が一番苦しかった時代で、昼飯を昼飯時間に食べる事ができず、退社時間になって
も家に帰る事もできませんでした。
この当時には、選鉱の職員が殉職した事があったほどです。
ですから当時、若い人達がどんどん退職しました。
現在の職長さん達は、この苦しい時期を乗り越えてきた人達です。
新工場ができて、私はその機械の配置を受け持ち、操業しながら研究改善をしてきました。
そうして間もなく支那事変、第2次世界大戦に突入し、処理鉱量もだんだん多くなり、
昭和18~19年には、1日3,500トンまでなりました。
~戦争末期伊豆時代~
昭和19年12月、本社に転勤になりました。
これは軍需省の命令で、北支密雲タングステンを選鉱するため、北支に行く事になっていた
のですが、戦争も敗色が濃くなり、空襲も激しく、とうとう行く事ができませんでした。
そこで今度は、東南アジアシンガポールからきていたアルミニウムの原料、ボーキサイトが来な
くなったので、古河は伊豆の仁科のミョウバンから、アルミニウムを採る事を命ぜられ、私達は
河津金山、伊豆蓮台寺温泉近辺を買収し、現場試験をして相当な成績を上げたのです。
仁科に1日処理能力4,000トンの選鉱場を作る事になっていましたが、これも結局終戦で完成
する事ができませんでした。
北支に行っていたら、無事に帰る事ができなかったかもしれません。
昭和20年10月、足尾に帰って来て、再び選鉱で、そうしてもう10年も経ちました。
♪青森シリーズ この名物道路は、この日に初めて開通したそうで、最後まで守られてると実感した。雪の高い壁は、そばで見ると大迫力! ここを通ると通らないでは、旅の印象は大違いだと思う。ホントに有り難いよね。