2005 年 4 月 22 日 のアーカイブ

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消費社会

2005 年 4 月 22 日

最近、あまりに簡単に人が刺されたり、殴られたり、突き落とされたり、襲われたり、
放火したり、そして殺されたりしていないだろうか(泣)? それも動機が曖昧で、
人に対する怒りの発火点が極端に低い。一体、今の世の中はどーなっちゃってんの?

確実におかしいよ。ずれまくってると思う。以前、私の守護神のような役割の方に、
「地軸がずれてきていると感じます」と教えてもらった事がある。このずれが地球
規模で是正される事はないのか? NHKの番組で、ある小説家が「少年達が殺人を
した後、普段通りの生活をしていた事の方が不気味な感じがします」と発言し、
ある脚本家は、「日本は生産社会から消費社会になったのが、発端のような気が
します」と述べていたのが印象的だった。

生産社会というのは、いわば自然から直接、労働によって原料・食料を生産する社会で、
第1次産業(農業・林業・水産業など)が当てはまる。例えば、お米や野菜を育てるには、
時間と労力がかかり、昨日種を蒔いて、今日収穫はできない。どんな土地にどんな種を、
いつ蒔くのか? 日光はどれくらい必要なのか? 水分はどれくらい与えるのか?等々、
今とは比べものにならないほど、毎日の生活の中で、色々な事を考え、工夫しながら
暮らしていた日本人。国が豊かになり、いつの間にか、第3次産業(サービス業)が
社会の中心になると、消費社会に移行していく。

私は以前、五穀豊穣のお祭りと聞いても、ピンとこなかった。なぜなら、食べ物は作る
のではなく、買うものという認識に、どっぷり浸かっていたからだ。スーパーに行けば、
ありとあらゆるモノが所狭しと並んでいる。動物を自ら殺生する事なく、おいしい肉が
食べられる。パックの中の肉片には、小さい頃から見慣れているせいか、さほど残酷と
いう気持ちも生まれない。天気を心配する事もなく、収穫の季節を喜ぶ事もなく、どん
どん鈍化していく現代人の私。

この脚本家は、「少年達の残虐な行為は、日本の消費社会の、その延長線上に生ま
れたのではないか?」という考え方だった。私にはとても新鮮な目線で、それが全て
とは言わないまでも、確かに関連性はあるだろうなぁと思えた。何もかもが便利に
なってくると、考えない生活になり、全てがピッという動作だけで済んでしまう。

未空家のお風呂が、まさにそのタイプで「37度って、どれくらいの熱さなんだろ?」
と確かめる事もなく、温度は37度に制御されている。SUICAやパスネットを持つと、
どこからどこまでがいくら?といった、運賃の書かれてある路線地図を見なくなる。

小さい頃、ピアノのレッスンに通ってる時、運賃表を眺めながら、日暮里ってウチから、
下の方に行くんだ?といったような、幼稚ではあるけれども、幼稚は幼稚なりのレベル
で学んでいたような気がする。そういう機会がどんどん奪われているのだ(泣)。私は
最近、触覚を大事にしている。37度のお風呂にまず手を突っ込んで、カラダで感じて
みる。そっか、これが37度なのか。ふんふん。ダイレクトに伝わってくるお湯の感触。

また、これは自分も含めてなのだが、楽しそうに生きてる大人がいない。あんな風に
なりたいなぁと思わせるような大人が少ない。フキゲンな大人が増えれば増えるほど、
ココロの環境汚染が蔓延していくような気がしてならない。そんな中、社会がどんな
に荒んでいようと、他人に優しく誠実な人がいる。思いやりにあふれ、生きる勇気を
元気をくれる人がいる。最終的には「自己選択・自己責任」なんだと思う。

特に、この時代なら尚さらの事、自分がどうありたいのか? 何をしたいのか?
どんな人間になりたいのか?を、一人一人が真剣に問われてるような気がして
ならない。私の五感+六感をおもしろがって鍛えつつ、日々感じた事を大切に
丁寧に紡いでいきたいと思う。
20050422

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