自分で選ぶと、厳しい評価がやってくる。やりたい事を自分で選ぶ事ができる時代というのは、素晴らしい。
しかし、これを逆にいうと、やりたい事が見つからなければ、いつまでも探し続けるという事だろう。或いは、
猶予期間が過ぎれば、たとえやりたい事でなくとも、自分の責任で選んで、その選択を肯定しなければなら
ないという事でもある。人はいつまでも、選び続ける事はできない。たとえ希望しないものでも、その中から
一つ選ばなければならないという生き方を強いられる。希望をあきらめるか、選んだものに内心では不満を
抱きながら、表面上は肯定して生きるという事になる。選択の自由というのは、自己責任で選択しなければ
ならないという必然性を、背後に抱えているという事なのだ。何を選んでも良いというのは、選ばなくても
良い自由を意味しない。自己責任で何か一つを選ばなければならない、というハードルがあるのだ。かつ
ては「運命」によって、仕方なく背負わされたものが、現在は自己選択、自己責任で背負い込むという事だ。
だから、不満を他者に、運命に向ける事はできない。たとえ何であろうと、自分が選んだものを、ひとまず
は肯定し、情熱を傾けて生きる事がベターである、という幸福感や人生観が必要になってくる。自己選択に
よる生き方は、一見して素晴らしい。しかし、本当にそうだろうか? 自己選択による生き方は、親や社会
を始め、他者に責任転嫁できないのである。自分以外に、不満の持って行き場所がないのである。十分
長い間、時間をかけ自分で選んで、やった事がゼロ、或いはマイナスの結果を生んだとしよう。弁解無用、
言い逃れ不能である。人は「俺はゼロだ。マイナスだ」という自己評価に耐える事はできる。しかし「お前
はゼロだ。マイナスだ」という他者評価には、耐え難い存在なのである。こういう事だ。「俺はバカな事を
やってしまった。俺は何てバカなんだ?」「そうだ、お前はバカだ。取り返しのつかないバカだ」これには
ガマンできるかもしれない。しかし、「俺の妻はどうしようもないブスだ」「そうだ。お前の妻はどうしよう
もないブスだ」。これにはガマンできないだろう。「妻」=自分の選択物をボロクソに評価され、それが
当たっていても、自分で言うのと、他人が言うのとでは、全く事情が異なるのだ。
/鷲田 小彌太「人生にとって“仕事”とは何か?(PHP文庫)」より
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