「随所作主(ずいしょにしゅとなる)」
この言葉は、臨済宗の宗祖臨済禅師の「臨済録」に出てくる言葉で、「立所皆眞」
と対句になっている。意味は何時、いかなる場合においても、絶えず「主人公」で
あれという事である。現代、一般企業ばかりでなく、グループ活動の中においてでも、
社長、管理職やグループのリーダーが「主役」で、他の人間は「脇役」のように思い
込まれている事が、当たり前のごとく考えられている。しかし、このような関係では、
一般的に唱えられている「個の活性化」「一人一人の創意工夫」という言葉が、ただ
掛け声だけに終わってしまわないだろうか? 「脇役」に甘んじている人達が、自ら
「主役」になっていかなくては、せっかくの言葉が空念仏になる。「無門関」第12則
に次のような問答がある。瑞巖和尚、毎日、自ら「主人公」と喚び、自ら応諾す。
即ち曰く「惺々著、諾」他時異日人の瞞を受くこと莫れ、諾、諾」。中国の禅僧、
瑞巌和尚は、毎日岩の上に座禅をしている最中に、大声で「主人公、主人公」と
喚び、且つ自ら「はい、はい」と返事をする。更に「目を覚ましていろよ」「はい」「将来
共に騙されるなよ」「はい、はい」と自問自答を繰り返していた。人間は誰しも、二人
同行で人生を歩んでいる。一人は生まれて、より成長していく過程において、色々な
事を知識として吸収したり、体験したりして、成長形成されていく自分「日常的自我」
と言う。もう一人は、生まれながらに、すでにある自分「本来的自己」とがある。この
「本来的自己」を「主人公」と呼ぶ。この「主人公」は、無限の力と限りない可能性を
秘めている。しかし、社会的常識や自己卑下と言った妄想や、執着すなわち「日常
的自我」の底に埋もれているため、外からは判りにくく、自分自身ですら、確認しに
くい状態になっている事により、十二分にその力を発揮できない。「イエスマン」と
呼ばれる人間や、人の顔色ばかりをうかがっている人間が、世の中には多くいる。
このような人間は、「日常的自我」のみに生きている人間である。しかし、そのよう
な人間でも、必ず「主人公」を内側に持っている。そこに早く気づいてもらいたい。
この2人の自己の対話が多いほど、その人の精神は豊かになる。対話が少ない
ほど、貧しくなる。自分は「主人公」なのだという自覚に立脚し、自分自身を信じる
事により、ストレスをためる事もなく、創造性豊かな人間として生きる事ができる。
自分の手により、自分の人生を充実させる事ができる!
/田原 義宣師(大本山天龍寺塔頭 宝厳院住職)
♪今日のお初♪ あの「ファントム・リーフ現象」で有名なキルリアン写真←西洋占星術とセットで30分4,000円だが、オーラ写真の方がオモロイな。