「屈原(くつげん)の話」
古代の中国に、屈原という人がいました。乱れた世にありながらも、
彼は一徹な正義感、清廉潔白な身をもって、優れた手腕で国のため、
民のために尽したのですが、それを心良く思わない連中に国を追放され、
流浪の身となりました。長い流浪に疲れ、志に絶望した彼は、滄浪(そうろう)
という大きな川のほとりに辿り着き、天を仰いで濁世(じょくせ)を憤る
言葉を吐きながら嘆いていると、一人の漁師が舟でやって来ました。
漁師は屈原に尋ねました。「身分の高いお方のようですが、どうなさいました?」
屈原は答えた。「今の世は濁世の極みだ。これまで自分は一人清らかに、
正しく生きてきた。人々は未だに皆、酒に酔いしれているような有様だが、
自分は一人醒めているのだ。それゆえに、私は官を追われ、無念の日々を
送っているのだ」。それを聞いた漁師は、「あなたはこのような濁世に、
一人高く己れを守って生きる以外の道は考えなかったのですか?」と聞いた。
屈原は答えた。「潔白なこの身に、世俗の汚れた塵を受けるくらいなら、
この水の流れに身を投じて、魚の餌になった方がましだ。それが私の生き方だ」
と答えた。すると、漁師はかすかに微笑み、歌いながら去って行った。
滄浪之水清兮(そうろうのみずすまば)
可以擢吾纓(もってわがえいをあらうべし)
滄浪之水濁兮(そうろうのみずにごらば)
可以擢吾足(もってわがあしをあらうべし)
滄浪の水が、清らかに澄んだ時は、自分の冠のひもを洗えば良い。
もし、滄浪の水が濁った時は、自分の足でも洗えば良い。
このような歌であったと伝えられています。この現代の濁世にも、屈原のように、
正直に真っ直ぐに、清く生きる人もたくさんおられると思いますが、真実のところ、
会社も学校も武道の社会においても、絶えがたいものでしょう。
大河の水も社会も、時に澄み、時に濁る。濁っている時の方が、普通かもしれませんが、
その事をただ怒ったり、嘆いてばかりでは身が持ちません。
その時、その時でできる事をして、精進していこうではあ~りませんか?
人がいいのと仕事は、ほどほどにという事で・・・