博多の一休さん
9/6「必見!」で、この展覧会には超うれしいシンクロがあったと書いたが、
実は併設で「仙涯展」をやっていたのだ! えーっ、ウソでしょ。だって、
9/5に「仙涯」の事を書いたばっかじゃん。コレは見なきゃソンソン~♪
正しくは仙涯の涯のサンズイはいらないそうだ。この仙涯さんは、色んな
逸話を残しているらしく、様々なサイトで紹介されている。以下に引用
させて頂く。
仙涯(1750~1837)さんは美濃国の出身。江戸時代後期、臨済宗の
禅僧であり、軽妙洒脱な人柄で、広く博多の人々に慕われていた。その
容姿は背丈は矮小で、顔は四国猿の日干し(自称?)ともいわれた。
禅の修行は月船和尚の下で修め、印可もそこで受け、その後聖福寺
に住職として赴任して来た時(1788)には、小坊主どもに乞食坊主に
間違えられたりしている。聖福寺を再興させ、「博多の一休さん」
とも呼ばれた。
晩年はまさに一休さんのイメージだが、若い頃は峻烈な修行を積み、
何度も生死の間をさ迷ったらしい。彼の臨終の時の話は有名である。
禅の世界では臨終に接する時、特に高僧・名僧は弟子に向かって、何か
貴い言葉を残してゆく習わしがあった。仙涯は88歳で九州の博多で臨終
を迎えるが、いよいよ最後の時、弟子達は和尚の体を湯で洗い、そして
白衣に着替えさせた。
その最後の時に至って、弟子達は「和尚、最後のお言葉を残して下され」
と申し上げた。達人の仙涯和尚であるから、さぞ立派なお言葉が聞ける
と思ったのであろう。しかし、仙涯和尚はその時、大きな声で一言「死に
とうないわ」と言ったそうな。これが和尚の最後の言葉と言われている。
権力に阿る(おもねる)事を極端に嫌い、終生、黒の麻の袈裟で過ごし、
絹の紫衣などは本山妙心寺の命令でも無視している。時の権力者で
ある黒田候が、領民よりも菊の花を愛でてばかりいるので、仙涯さんは
花の頭を全て切り取ってしまって、お上に藩政について再考を迫ったり、
博多の豪商宗平が揮毫を頼んで来た時には、「おごるなよ 月の丸さも
ただ一夜」を与え、いつの時代にもありがちな成金の増長を諫めた。
また仙涯さんは、俳句の宗匠をしていた四軒が所有していた曲玉が
欲しくて欲しくて、ついには無理矢理手に入れた。その代わりに猿
の画を描いて、次の賛をして与えている。
「曲玉を さるほどに 惜しむなら 代わりにやろう 俺が金玉」
あーはっはっはっ。仙涯さん、最高! そんな彼の作品だったら、
ちょっとのぞいて見たくなったでしょ(笑)
上野・不忍池の金色堂。ライトアップされた姿は美しく、それに負けじと月も輝く。うーん、まさに♪エキゾチッ~ク~ジャペ~ン GOで~す(笑)