蟻の街のマリア
昭和25年、東京・浅草。終戦後に何不自由なく暮らす1人の女性がいた。
北原怜子(さとこ)、当時21歳。ある日、彼女の元に全身黒い修道服
に身を包んだ老神父が訪れた。「お嬢さん、可哀想な人のため、お祈り
お願いします。聖母マリア様のお恵み、きっとあります」と言い、マリア
様の描かれたカードを置いて、彼は立ち去った。
怜子21歳の冬、ごく平凡な毎日を送っていた彼女の人生を、大きく変える
事になるとは思ってもいなかった。新たなる偶然が、今度は彼女を大きく
導いた。街で老神父を見かけ、知らず知らずに後を追ったのだ。
そこは隅田川の近くで、100人近い人が街中のゴミを拾って来て集めていた。
小さな子供達までが、生きるために懸命に働いていた。空襲で家を焼き出
され、家を持てずにいた人々が集まり、下町の工場跡に日々ゴミを集めな
がら必死に生きていた。彼らはよく働く事から、ここは「蟻の街」と呼ばれた。
神父は広島や長崎を始め、蟻の街など戦争で被害にあった人達のために、
慈善活動をしていたポーランド人のゼノ神父だった。「私1人の力では
どうにもなりません。1人でも多くの人に知ってもらいたかった」という
神父の言葉に、何不自由なくただ漫然と暮らしてきた自分を思い返し、
怜子は恥じた。
とにかく何かがしたい、そう思った怜子は翌日、蟻の街へ行った。12月
というのに、足袋も履けずにいる子供達に、怜子は食べ物をあげようと
した。すると、蟻の街の男性が「帰れ。あんたのしてる事は、金持ちの
暇潰しだ。俺達は物乞いじゃないんだ」と言った。街には、怜子の存在
自身を快く思わない者もいたのだ。
本当にあの子達を助けたいのに、どうすればいいんだろう。彼女は悩ん
だ末、答えを出した。それは、自ら街中のゴミを拾い、蟻の街で働き
続ける事だった。彼女は1日も休む事なく通った。そして、集めたゴミ
で得たお金を、蟻の街の子供会の名でそっと会計に預けていた。
彼女はまた、自分のできる事をやろうと、子供達に歌や勉強も教えた。
学校に通えない子も、いじめられて泣きながら帰って来る子も、怜子
を先生のように慕った。
怜子はその後、教会と協力して、蟻の街で初めてのクリスマス会を
開いたり、子供達の夏休みの宿題のため、今まで見た事も行った
事もない山や海を見せようと、ゴミで集めたお金で、箱根に連れて
行ったりした。怜子にとって、子供達は生き甲斐となっていたのだ。
ところが、元々体の丈夫でなかった怜子は、無理がたたって体調を
崩し、半年以上も寝込む事になった。医者も「今の医学ではどうし
ようもありません」と言うほどに弱ってしまった怜子。そんな状態
の怜子の家族に、医者はこう言った。
「1つだけ、治せるかもしれない病院があります」
そこは、蟻の街だった。彼女の生き甲斐を薬にしようと考えたのだった。
半年ぶりに見る子供達の笑顔に、怜子は元気づけられた。1人の子供
が久しぶりに会う怜子に、1枚の絵を渡した。それは、怜子を聖母マリア
に見立てた絵だった。そして、怜子に奇蹟が起きた。
蟻の街に通うようになり、体調がみるみる回復してきたのだ。彼女
はそれからも金持ちの傲慢という非難を耳にしながらも、蟻の街に
身を置き、志半ばにして28歳の若さでこの世を去った。
しかし、彼女の勇気ある優しい心は、子供達の心にいつまでも
生き続けたのである。