あいつ
「あいつ」は、講義の始まる時間に10分も遅刻してやって来た。
講師である「わたし」に挨拶もしないで、いかにも面倒そうに
椅子を引いて席についた。
企業の研修では、よくある光景である。こんな奴が研修を台無し
にするのだと、「わたし」のどこかで感じている。
それにいちいち関わっていては講義が進まないので、朝のオリ
エンテーションを進める。
「あいつ」はあらぬ方向を見ている。「わたし」の講義を聞く気など、
さらさらないらしい。
せっかく昨日から準備してきた練り上げた内容なのに、無視する
とは気に入らない。
きっとこの会社は、こういう風土なのだ。全く話すつもりではなか
った企業風土の話などを挟んでみる。時間を守る大切さや人の
話を聞く事の効果についての話だ。
この人達には、必要な話なのだと、「わたし」のどこかで感じている。
相変わらず「あいつ」は、全くやる気がなさそうである。目について
仕方がない。
「わたし」の事を一体、どう思っているのか。カバンの中をゴソゴソ
触り出した。
何かを取り出して口にいれた。隣に座っている仲間に話しかけた。
この時だけは笑顔である。また肘をついて、退屈そうに床のどこか
を見つめている。
「わたし」には不出来な1人の受講者に関わっている時間はない。
みんなに向けて最初のセッションの説明をする。
いつものように、穏やかに明快に話ができているはずだった。5分
で終わる予定の話に20分かけてしまったことに気づいた。話が冗
長になっている。心に防衛本能が働くとたくさん話してしまうことを、
自分でよく知っていた。「あいつ」のせいで、この研修の雰囲気が
悪くなり始めていると、「わたし」のどこかで感じている。
何とか休憩時間にこぎつけた。いつもより疲れている。受講者が
悪いと、感じる時間も疲れも倍増である。
「あいつ」は誰かと携帯電話で話をしている。早く研修が終わって
帰りたいという内容が漏れ聞こえてくる。わざと「わたし」に聞こえ
るように言っているのか。
全く、人の気も知らないで。もう研修はボロボロである。
取り返しのつかない白けた風土が蔓延しているのが、よくわかる。
退屈な表情の受講者が朝よりも明らかに増えている。「あいつ」
の態度が全体に広がったのだと感じている。
悪い風土は伝染するというのは本当だと思っている自分を感じて
いる。「あいつ」さえいなければ、この集団の風土はとても良かっ
たのに、なぜこんな事になってしまったのだろうと気持ちが焦る。
いくら頑張っても、この悪い雰囲気を取り戻す事はできない。
帰り道、アシスタントスタッフに「あいつ」の話をこぼした。
「そうですねぇ、彼は調子悪そうでしたね。講義中に薬を飲んで
いましたね。それにしても、先生もずいぶん調子悪そうでしたね。
お風邪でも召されましたか」
風土を一番乱していたのは「わたし」であり、傷ついているのも
「わたし」である。
/山本 正樹(理想経営代表、経営コンサルタント)
♪谷中・七面山の前にあるお宅で咲いていたサボテンの花。あまりの鮮やかさに、しばし見とれてしまった。葉っぱからニョキっと出てる感じなんだけど、これは何の花ですか? ご存知の方がいらしたら、是非教えて下さいね。