ダモクレスの剣
シラクサという町はシシリーで最も豊かな都市でした。壮観な宮殿で贅沢に包まれ、
豊富な衣類、及び宝石は選り取りみどり、稀な芳香や香辛料はあふれんばかり。
極上の食べ物もふんだんにあり、また美しい女性に取り囲まれていました。しかし、
ディオニュシオス王の心は、何となく不安でした。その満たされない心の不安を
紛らわそうと、宮廷にたくさんの“おべっか使い”をはべらせていたほどです。
ダモクレスは、そのようなおべっか使いの一人でした。絶えずディオニュシオス
王を賞賛していたのです。 実際、シラクサの多くの人々が、ディオニュシオス
の莫大な富および権力を羨んでいました。
ダモクレスは、ディオニュシオス王によく言ったものでした。「陛下は何と幸運な人
でしょう! 誰もが望むもの全てを持っています。陛下はこの地球上で、最も幸福
な人に違いありません」。
このような決まりきったおべっかを聞いていたディオニュシオス王は、ある日、ふと
ある考えを思いついたのです。ダモクレスにある事を教える良い機会だと思ったの
でした。それで、おべっか使いに言いました。
「ちょっと聞いてくれ。私がお前になって、お前が私になる。そんな風に立場を
変えて見ようと思うのだが。私の王座に座りたくないかね?」
「陛下、きっと私をからかうつもりなんでしょう?」
「いいや、決してからかったりなどしておらん。私は至極、真面目なつもりだ」
「本当ですか?」
ダモクレスは、なお不信に思って、キラッと光る王の目の奥を見つめました。
しかし、ふざけている様子は見えませんでした。それで、彼は言ったのです。
「本当に私が、宮廷の贅沢と悦楽をたった一日でも味わえたら、もう私はそれ
以上の幸福を決して望まないでしょう」。それを聞いたディオニュシオス王は
言いました。「わかった。これで決まった!」
翌日、ダモクレスは美しい女性達に囲まれて王様のようにもてなされ、見た事
もないような豪華なごちそうに舌鼓を打ち、もうまるで夢のような幸福に浸った
のでした。
もう愉快でたまらないといったような風情で、ダモクレスは口にカップを持って
ゆきました。その時でした。彼はふと、天井に眼をやったのです。途端にギョッ
として、彼は身を硬くしました。
何と、光にきらめいた鋭い刃を持つ剣が、天井から吊るされているではありま
せんか。しかもそれは、1本の細い馬の毛で吊るされているにすぎないのです。
その刃はまさに、彼の眉間に突き刺さるように吊るされていたのです。ちょっと
でも動けば、その剣が落ちそうに見えました。そうでもなければ、彼は脱兎
の如く、その部屋から飛び出していたでしょう。
「どうしたのかね?」ダモレスクの様子を見た王は尋ねました。「何だか急に
食欲がなくなったようだが」「ケ、け・・・剣」。真っ青な顔をして、彼は
囁くような小声で言いました。
「剣が、あの・・・あそこに・・・見えませんか?」
「ああ、剣かね。もちろん、私にも見えるよ」王は答えて言いました。
「私は毎日、あれを見ているんだ。あの剣は、いつでもああして、私の頭上に
吊り下げられている。もしかすると、ある日、私のアドバイザーの内の1人が
妬んで、私を殺そうとするかもしれない。あるいは、誰かが私に関する悪い
嘘を広げて、民衆を扇動し、私を倒そうと反乱を起こさせように仕向けるか
もしれない。あるいはまた、近隣の王が、私の王座を奪おうと、軍隊を差し
向けるかもしれない。もしかすると、私が自分の没落をもたらすような
愚かな決定を下すかもしれない。一国の王になりたければ、このような
諸々の危険を受け止めるだけの心の準備ができてなくちゃならない。これ
がリーダーシップについて回る、責任の重石(おもし)とでもいうものさ」
「なるほど・・・」
ダモクレスは呟きました。それからというもの彼は、王様と場所を交換したい
などという気持ちは、2度と起こりませんでした。誤解していた事を悟り、
ダモクレスは富と名声を羨む気持ちがなくなりました。 そのように気づいた
事を幸いだと思いながら、彼は自分の粗末な家へ戻って行ったのでした。