最後の仏師・西村公朝①
私は昔から、宗教者の人生に興味があるので、TVに神父や牧師、
シスター、お坊さん、尼僧さん等が出ていると、自動的に見るクセ
がついている(笑)。
故西村公朝氏は、とても不思議な体験を経て、仏師になった方で、
個人的に興味が尽きない。といっても、ほんの数ヶ月前までは、
名前すら聞いた事がなかった方だ。
普段ほとんどTVを見ない私が、たまたま真夜中にNHKで、西村
公朝氏のインタビュー番組を見ていたこと事体、奇跡だし、
お導きだったのだろう。どう考えてもそうとしか思えないのだ。
実は私は、彼の名前をすっかり忘れていて、仏師、修復、京都
といったキーワードでググったところ、ようやく名前を見つける
事ができた。彼の半生について、素晴らしくまとまった記事が
あったので、以下に引用させて頂く。
昭和・平成と活躍し、その卓越した技術と膨大な仕事量から、
「最後の仏師」といわれた西村公朝は1915年、大阪高槻に
生まれた。
1935年(20歳)、現代彫刻に憧れ、東京美術学校(現・東京芸大)
に入学。1940年、彫刻科を卒業。中学で美術を半年教えた後、
翌年に26歳で美術院国宝修理所へ就職。 そして、4年前(1937年)
から始まっていた京都・三十三間堂の千体千手観音像の仏像修理
(毎年50体を修理する大事業)に加わった矢先、1942年(27歳)
召集令状を受け取り、中国へ出征する。
公朝は中国戦線で夜間行軍中、あまりの疲労のために、不思議な
夢を見た。1人で銃を持って前進する自分の左右に、無数の仏様
が現れたのだ。その仏様をよく見ると、どれもが割れたり欠けたり
している、痛々しい仏像だった。
公朝は「私に直してほしいのか? ならば無事に日本へ帰してくれ」
と声をかけた。果たして公朝は、終戦まで大陸を転戦したが、自ら
が死ななかっただけでなく、1人の人間も殺さずに済んだという。
東京・上野大仏は、高さ約6mの釈迦如来坐像だった。 寛永8年に建立され、正保、天保、安政の地震火災などで損傷したが、その都度、再建された。関東大震災で大仏頭部が落ち、上野寛永寺内に胴体と頭部を別々に保存していたが、太平洋戦争中の金属供出に伴い、胴体部を供出。現在、残る顔部分を残し、全て失われた。昭和42年、上野観光協会が薬師如来を本尊とし、月光菩薩と日光菩薩を安置するパコダを建立した。世界中、本当に平和が何よりだよね。