最後の仏師・西村公朝②
1945年(30歳)、帰国した公朝が三十三間堂に戻ると、修復作業は
敗戦直後の混乱の中も、ずっと続いていた。「天命だ!」こう感じた
公朝は、現代彫刻の道に進まず、仏師の道一本に進んでいく。
1958年(43歳)、21年をかけて、ついに千体すべての千手観音像の
修理が完了。その内、公朝は600体の修理に携わった。三十三間堂
での大仕事が終わった翌年、44歳で美術院国宝修理所の所長に
就任する。1974年(59歳)には、東京芸大教授に着任。
この間、公朝は仏師として活躍するかたわらで、37歳の時に得度
して僧侶になっており、1955年には40歳で天台宗・愛宕念仏寺の
住職に任命されている。
愛宕念仏寺は、約1250年前に京都東山に建立された古刹だが、
平安初期に鴨川の洪水で寺が流され、醍醐天皇の命を受けた
天台僧・千観内供(せんかんないぐ)によって、千年前に比叡山
の末寺として再興された。
その後、次第に寺運は傾き、公朝が赴任した時、愛宕念仏寺は
京都一の荒れ寺と言われ、檀家もおらず境内は雑草が生い茂り、
荒廃しきっていた。本堂もかなり傷んでいたが、仏像達の置か
れている状況は、もっと深刻だった。
前住職は生活苦のために、次々と仏像を売り払い、本尊の千手
観音は、腕を1本ずつバラ売りした挙句、42本中、残っていた
のはわずかに4本のみだった。公朝は自分で足りなかった38本
を彫り、数百年が経ったような退色した色を作って、これに塗り、
完璧に修復した。
以後、全国各地の仏像を修理しながら、寺に戻っては少しずつ、
境内を整備していった。
じもてぃーの夏祭りでは、割箸に刺さった「冷やし胡瓜」が売っていて、味噌をつけて食べるらしい。素朴な味わいだよね。初めて見たけど、カッパが喜びそう(笑)