高野山旅日記⑤
お昼を過ぎた頃、やっと第一目的地の「九度山」に到着
するが、目指す慈尊院への行き方がわからない。「看板
が出てますから」とじもてぃーの人に教えられたが、
わかりづらいんだな、コレが(泣)。
一応、観光マップもあり、それを手がかりに歩いて行くと、
「真田庵」という看板が出ていて、かなりのプッシュぶりだ。
早速、行ってみると、門にはあの有名な真田家の六文銭
の家紋がある。真田庵(善名称院)は、1600年(慶長5年)
から19年(1614年)まで、真田昌幸・幸村公が蟄居して
いた屋敷跡だそうな。
あの六文銭旗の由来だが、天正10年、三国峠で上杉の
大軍を戦わずして説き伏せた真田父子は、三百余人の
軍勢を引いて、三国峠を過ぎた笠が城で、北条氏政の
大軍45,000と対決。
その時、幸村は14才。父・昌幸に「家名をあげるのは、
この時です。どうして恐れる事がありましょうか」と
言って、無紋の旗を取り出し、北条方の重臣・松田
尾張守の旗の紋、永楽通宝の紋を描き、旗六本を
造り、味方を六隊に分け、敵陣に夜討ちをかけた。
北条方は松田が謀反を起こしたと言って、大騒動
であった。昌幸は、幸村にその功を誉め、「お前は
今から定紋を“六文銭”にする事を許す」と言った。
これが真田の六文銭旗の由来です、と看板には
書かれてある。