高野山旅日記⑥
真田庵から慈尊院までの道のりは、とても遠く感じられ、
10月だというのに気温も高く、私はかなりのヘロヘロ
状態だった。ひと気のない路地で、じもてぃーの人を
やっとこさ捕まえて道を尋ね(笑)、無事、慈尊院へ
辿り着いた時は、それはそれはホッとした。
フリー百科事典「Wikipedia(ウィキペディア)」によれば、
慈尊院(じそんいん)は高野山真言宗の寺院で、山号
は万年山。2004年7月に、ユネスコの世界遺産「紀伊
山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。
弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から
高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たる
この九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として
伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(まん
どころ:寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに
冬期避寒修行の場とした。
高齢となった玉依御前(空海の母)は、讃岐国多度郡
(現・香川県善通寺市)から、息子の空海が開いた
高野山を一目見ようとやって来たが、当時、高野山内
は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの
政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。
空海は、ひと月に9度(正確に9度という訳ではなく、
それだけ頻繁にという事の例えだと言われている)は、
必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って、
政所の母を訪ねて来たので、この辺りに「九度山」
という地名がつけられた。
空海の母は、承和2年(835年)2月5日に死去したが、
その時、空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を
建立し、自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。
弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶ事から、この政所
が慈尊院と呼ばれるようになった。
空海の母が、この弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、
入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んに
なり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるように
なり、女人の高野山参りはここという事で、「女人
高野」とも呼ばれている。
境内に蓮型の噴水があり、ポーンと開けた感じの
エネルギーが気持ちいい。ちょうど満願御礼の
集団が来ていて、万歳三唱の雄叫びをあげていた。
それを見ながら、私もいずれお遍路をやるんだ
ろうなぁと思った。せっかく日本人に生まれた
ワケだし、今から計画立てとかなきゃね。
と言いつつ、その前にイスラエル巡礼だ(笑)