福寿観音と洒水(しゃすい)観音
今日は午後から話し合いに行かなければならず、気分がずーっと
重かった。これは神仏の力を借りなければと、巣鴨のいつもの参拝
コースに出かけた。まずは大鳥神社からで、次が江戸六地蔵尊。
白山通り沿いを避け、1本裏側の道を歩いて行くと、いつも幟が立っ
ている建物に、垂れ幕がかかっていた。中からご祈祷が聴こえ、儀式
をやっているようだ。そしてここが、真言宗智山派の「福寿観音教会」
だという事を知った。
外には、ご自由にご参拝下さいと書いてあるのだが、いつも鍵が閉ま
っていたので、一度も中に入った事がない。だが、今日に限って、
この時間に開いている。これは間違いなくお導きで、私はいつもの
如く、神仏の有り難いご加護を感じた。
福寿観音というのは初めて聞いたので、ネットでググってみたが、なか
なか情報がない。福寿観音も千手観音や十一面観音と同様、三十三
観音の一つなのだろう。
ある寺院では、福寿観音を「洒水(しゃすい)観音」と紹介していたが、
同一のものなのだろうか? 福寿とは、幸福と長寿の意味のようだ。
「洒水(しゃすい)」とは仏教用語で、浄水を散らして身を清め、道場を
清める行為。洒水用の浄水は、洒水器と称する金属製の小鉢に入れ
て置く。洒水をする時は、これを机上に置くか、左手に保持するかして、
右手に持つ散杖〈さんじょう:真言宗で加持の時、香水〈こうずい:
仏前に供える水〉を壇や供物などにまき散らすのに使う杖状の仏具。
柳や梅などの枝で作る。灑水杖〈しゃすいじょう〉)の先で、水をかき
回しながら真言を唱えて、浄水に霊力を与えた後、一定の所作で
散杖を振って、浄水を散らす。ふとキリスト教の聖水を思い出した。
建物の入口に女性が一人いるものの、福寿観音にお参りする事は、
信者ではなくても大丈夫なようだ。紫の幕のかかった中にいらっし
ゃるのだが、私はどうしてもお顔が拝見したかった。
大変失礼とは思いつつ、ギリギリまで近づいて写メさせて頂いた。
ありがとうございます。福寿観音様、どうか私達をお護り下さい。
心から感謝して、お参りさせて頂いた。この絶妙なタイミング、何だか
うまくいきそうな気がしてきた。ホッ。やはり私は救われている。全て
の事に感謝だ。どうもありがとうございましたm(_ _)m