勘
仙台市のある弓道の大家は、射場を暗くして、的代わりに1本の線香を立てて
射撃した。暗闇に見えるか見えぬかの、かすかな線香の明かりだが、この人
が矢を放つと、線香の火がぴしっと消えた。同席したドイツの著名な哲学者が、
「まぐれだろう」と疑って「もう1度」と言うと、やじりは又もぴしっと線香
の火を消した。3度、4度、何回やっても同じである。「どうしてこんな事が
できるのか?」と言うドイツ人の問いに、大家はこう答えた。「線香の火を
凝視しますと、的のかすかな火と自分の魂とが一体となって、天上天下に的
の火と私しか存在しないような、そんな感覚がします。的の方がびゃあっと、
やじりの前に近づいてくる。この時に、矢をつがえていた手を離すのですが、
これを“射る”とは言わず、“手が落ちる”と言います」。理屈に合わない話
だから、「ウソだろう」「錯覚だよ」と言う人もいるのだが、何千、何万と
打ち込んでいく過程での、これも集中力のなせる業だ。科学者の発明発見も、
その発端はひらめきだというが、非常な修練や体験によって、プロの人間は、
考えたり分析しなくても、ひらめきでわかるという部分がある。物事に徹して
しまったところに、生まれてくるのが「勘」というものだ。この「勘」という
言葉には、それだけ深い意味が込められているんだろうね。納得!